野路の玉川(萩の玉川)

中世の歌人達が残した野路の玉川と野路の篠原

ここ野路の玉川は、平安時代末(12世紀)から有名になった歌所で、萩の玉川とも言われ、日本六玉川のひとつとして知られています。野路はまた鎌倉時代、有名な宿駅でもありました。
野路の玉川は、平安、鎌倉時代の東山道沿いに位置し、往来の旅人たちも、秋には「詩に詠まれている、野路の篠原(現在の平野)」あたりを越えると、一面になみいる萩の花の景観を堪能したことと推察されます。

日本六玉川日本六玉川

「古跡、野路の玉川」に因んで現代に造られた絵図、詩のレプリカや歌碑など

野路の玉川

史跡として保存のため設置された、野路の玉川

(萩の玉川の絵図)

昭和52年玉川小学校開校記念に寄贈され講堂の舞台に掲げられた緞帳(萩の玉川の絵図)

萩の花の風景

昭和50年代、当時の老人クラブ会長中野惣三郎氏が土手に萩を植樹。秋にはなみいる萩の花の風景を見ることができる。

玉川公民館設立記念歌碑

平成3年3月、玉川公民館設立記念として歌碑が公民館の駐車場、中庭に設置された。

「野路の玉川」保存のあゆみ

野路の玉川は、平安時代から全国的に歌所として知られていたので、地元の人々は早くからその紹介や保存につとめてきました。その経過は以下の通りです。

  • 江戸時代には、村人が瓦版で旅人に玉川の紹介につとめた。医師でかつ郷土史家だった故中神良太氏によれば、天保2年(1831)野路在住の白萩山季玉道人が「近江国玉川之図并ニ由来」を改版して世に出し、またやはり地元の米屋嘉市が「諸国六玉川古歌画」を出したという。前者は白萩山願林寺の住僧と考えられるが、後者は庶民である。いずれにしてもこのことは村人の教養の高さを示すものであろう。
  • 明治33年、村長・柴田要助ほか黒川弁藏、田中寅吉、柴田大吉の諸氏が保存会を作って保存に努めようとした
  • 昭和11年ごろ、地元野路の有志が玉川復興会を結成し、趣意書を作成して復元整備をはかった。
  • 昭和51年11月、野路町町内会(会長・丸尾重次)が古図にもとづいて復元工事を実施した(設計・江見和綽、施工・ヨシキ建設)。なお、この公示前に加藤義一氏が中心となり、野路壮年会、同婦人会の方々による発掘が実施された。
  • 前回の復元工事から18年を経過して、規模や池の取水等で問題が出てきたため、規模を拡大してさらに整備することとなり、再び野路町内会(会長・福井由左衛門)が市の協力を得て計画、施工し、平成5年3月25日に完成した。
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