社寺・遺跡について

古来より連綿と続く、人々の心の拠りどころ

野路

野路町には古くから続く神社・寺院が数多くあり、その建築様式や所蔵物には文化的・歴史的に意義深いものがいくつもあります。いずれも湖国の人々の信心深さを物語るものであり、各社寺には今も多くの参拝者が訪れています。

1.新宮神社

新宮神社

社記によると、奈良時代の高僧(行基)によって野路寺創立の時、鎮護社として天平2(730)年に創建された。祭神に速玉男命と事解男命が祭られており、熊野速玉神社(大社)の分社と考えられる。
また宝亀元(770)年、野路里の鎮守様として野路禰宿春原為亮が社殿を建立されたと伝えられている。
現存する本殿は、大永3(1523)年、室町時代建立の優美な桧皮葺で、重要文化財に指定されている。このほか歴史的に価値あるものとして、入口の脇門には旧膳所城門が移設され、膳所藩本多家の家紋「右離れ立葵」の軒丸瓦が見られる。

2.玉川山 常徳寺

玉川山 常徳寺

奈良時代の高僧・行基が729~749年頃に創建したとされる「野路寺」が常徳寺の前身であると考えられている。常徳寺は当初、法相宗や天台宗であったが、戦火で衰退し、江戸時代の明和5(1768)年に明庵和尚が再興した際に曹洞宗となった。
江戸時代、野路の観音堂池から、かつて火災にあって池に沈められたと伝えられる黒こげの観音像が発見された。明治初期になって、人々の寄進により常徳寺境内に観音堂が建てられ、観音像はそこに安置された。この観音堂は平成13年に観音像とともに解体・修復され、現在も人々の信仰を集めている。

3.玉川山 浄泉寺

玉川山 浄泉寺

室町時代の長録4(寛正元・1460)年、野路城主・黒川駿河守宗次は本願寺第八代法主・蓮如上人より御化導を受けて得度し、僧「圓實」となった。圓實は真宗の門徒衆と協力して、野路城の一角に「十禅念仏道場」を建立した。約50年後、道場は改名され、「玉川山・浄泉寺」となった。これが浄土真宗大谷派・浄泉寺の開基である。
戦国時代になって野路城は破壊されたが、浄泉寺は残された。そして江戸時代中期の享保6(1721)年、念仏道場の建物は現在の寺院建築の本堂に改築された。その後山門や鐘楼も建立され、境内等も徐々に整備されて現在に至っている。

4.白萩山 願林寺

白萩山 願林寺

浄土真宗大谷派・願林寺は永正9(1512)年、「願林寺願主の釈祐正」が本願寺第九代法主の実如上人から方便法身尊形(阿弥陀如来画像)を授与され、「西の念仏道場」を開いたのが開基とされる。
同寺の山門は、旧膳所藩が明治初期に解体されたとき、城門(長屋門)を譲り受けて移築したもので、「虫籠窓」が三箇所見える造りになっており、一尺二寸(約40cm)の大きな門柱、分厚い板に鉄鋲を打ちつけた扉が重厚さをかもし出している。
鐘楼は江戸中期のものと思われる。梵鐘と鐘楼は寄進で出来たが、基礎の石積みの費用が無く、門徒一同が積み石を持ち寄って基礎を造った。不揃いの石が見事に積まれている。

5.本誓山 教善寺

本誓山 教善寺

浄土宗・教善寺は、江戸時代前期の承応2年(1653年)、当地の念仏篤信者・遠藤権兵衛が剃髪し僧となり、敷地と田畑一町歩(約3000坪)を寄進、開山上人に清誉浄雲和尚を迎えて建立した。以来、49代に渡って法灯が連綿と継承されている。
旧東海道の沿道に建ち、近江湖南二十七名刹の二十一番にも数えられる瀟洒な寺院である。

6.平清宗の碑

平清宗の碑

教善寺のすぐ西側、南草津病院を営む遠藤勉医師宅の庭には、平家の悲劇の若武者・平清宗の胴塚(五輪塔)がある。
清宗は父・宗盛とともに源平最後の合戦・壇ノ浦の戦いで源義経に捕らわれ、鎌倉から京都への帰路、この地で首を落とされた(享年わずか17歳)。首は六条川原に晒されたが、当地に胴が残ったため胴塚が建てられ、約820年を経た今でも遠藤家によって懇ろに保存供養されている。

7.野路小野山製鉄遺跡

野路小野山製鉄遺跡

国道1号線京滋バイパス建設にともなう発掘調査で、製鉄炉10基、木炭窯6基、大鍛治跡1基、管理用建物1棟、工房跡11棟など、奈良時代の製鉄に関する遺構がすべてそろって発見された。これらの成果から、わが国における製鉄技術の発展と、古代国家における鉄生産の実態を明らかにする上で、きわめて重要な遺跡として、昭和60年に国史跡に指定されました。
平成17年度の調査では、整然と並ぶ製鉄炉4基が見つかり、未発見の製鉄炉が地下に多数眠っていることが明らかになった。

8.野路木瓜原製陶 製鉄遺跡

野路木瓜原製陶 製鉄遺跡

立命館大学びわこキャンパス平成6年開校により野路山に誘致され、開発工事に先立ち、山の表土を削り取ると製陶・製鉄炉跡、炭焼き窯等が出てきた。木瓜原遺跡は奈良時代670年頃から750年頃に製鉄・製陶(須恵器・土師器)(末木・はじき)から梵鐘の鋳造まで行なっていたと考えられる。
遺跡は琵琶湖との高低差50メートルのなだらかな丘陵地帯のなかに位置し、4キロほど南西には近江国庁が営まれていた瀬田丘陵一帯は近江国庁の設置とともに開発が進められ、この木瓜原遺跡もその一環として律令国家建設に大きく関与していたものと考えられています。
この木瓜原遺跡埋地の一部は原型のまま、キャンパス・グランド下に保存されています。 (※個人での見学はご遠慮下さい)

9.野路駅跡

10.東山道史跡

11.子守地蔵

子守地蔵

江戸時代に九州肥後の殿様が、参勤交代で草津方面に行列しているとき、道脇に土下座していた母親と四歳の男の子の前に1匹のカブト虫が飛び出したそれを捕ろうと思い、行列の侍にぶつかり『おのれ百姓の分際で、殿のお籠先をけがす不届きものめ』といって、腰の刀を抜くが早いか、いきなり二人を切り殺してしまった。
村の人々が哀れな二人の供養のためにと、お地蔵さんを刻んでその辺りに祭り『子供を守ってくれる子守地蔵や』と言われ永い間、村の人々の篤い信仰を集め、毎年8月24日がお祭り(地蔵盆)に子供達や近所の人々が地蔵さんに化粧をし、お供えものをあげ供養するようになりました。

12.十禅寺川

十禅寺川は牟礼山(標高221メートル)から南は狼川、中央は十禅寺川、北は北川と3本の河川が流れている。この河川の特長は、山から流れ出る土砂で川底の高床化が進み東海道を過ぎると天井川となっている、長さは起点から琵琶湖まで5.3キロメートルと小さな河川ですが、平安時代、鎌倉時代には、清く澄んだ玉のような水が沸き流れ、人馬の喉を潤し、農業にはなくてはならない水でした。昭和初期ごろはオオサンショウウオが棲み、ムツ、フナ、コイ、モロコ、ウナギ、スッポン等、の魚類や、シジミ、タニシ、ドブ貝の貝類も豊富に取れ各家庭の食材にしていました。昭和20年代頃までは子どもたちの良き遊び場でもありました。

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